リップヴァンウィンクルの花嫁

最近、綾野剛にハマりました。でも私にとって彼の演技が輝く最上の役は「リップヴァンウィンクルの花嫁」の安室さんだったんじゃないのかなと思って悲しみにくれています。そこはかとない胡散臭さがあれほど映える作品はあるでしょうか?綾野剛の、梅干しでも口の中に入ってるかのような笑顔と涙袋が目立つ笑顔が好きです。GANTZ亜人の悪役もとても似合う人ですが、それらの映画は私の好きな傾向のものではないし、きっと、もう私の1番好きな彼は見れないのです、トホホ。日本の映画とかドラマってどうしようもなく安っぽいものが多くてだからこんなこと思わなきゃらないんですよ、ハリウッド俳優だったらもっと今後に期待できるのにね。

 

 この映画、結構前に見たんですけれど、綾野剛を確認するためにもう一度見直しました。お金を貰って演じるなんて俳優そのもののことを指しているんだなって、更に言うとAV女優だってお金貰って偽物のセックスしてるわけで、同じなんですね。いつでも偽物でしかない俳優の中に偽物のセックスをする本物のAV女優を混ぜてみたり、この作品は本物と偽物の違いは何なのかということをテーマにしてるのかなと思いました。本当の家族や友人とお金を貰って演じたそれとの違いはどこにあって偽物の方が本物に感じるのは何故でしょう。金銭を見返りとした関係の最もたるものがセックスなんですよね、更にその先が真白さんのやろうとした心中。この作品を象徴するような、何らかのメッセージ性が含まれているだろうということを匂わせる真白さんのセリフがあって、「コンビニやスーパーや宅配便のおじさんが私なんかに優しくしてくれるのは幸せ過ぎて耐えられないからせめてお金を払うんだって」そういうことを言うシーンがあるんです。中沢新一の「愛と経済のロゴス」にはこんなことが書いてあります。“贈与において重要なのは、じつは贈り物となるモノではなく、モノの移動を媒介にして同じ方向に移動していく、流動的で連続性を持っているなにかの力の動きなのです。その「なにかの力」を表現するために、よく「信頼」や「友情」や「愛情」や「威信」などといったことばが使われます。”  貨幣経済はお金を差し出したものに平等で、その意味ではとても優しい交換の社会なのに真白さんは全てを贈与だと勘違いしてる人、そこで全てを贈与で返すことができたらよかったのに彼女は貨幣という交換の論理で返そうとする、でも交換よりも贈与の力の方がはるかに大きくその歪みに耐えられなくなった彼女は死んでまったんだと思います。

 それにしても、この映画を見てると偽物の方が本物に感じます。お金を貰って演じたはずの他人の結婚式のための家族が本当の家族に思えてきたりするんです。むしろ、偽物の方が本物より本物らしかったりします。この感覚によって綾野剛の胡散臭さが光り輝くんですよ。そこが、この作品以上彼に似合うものはないと思った理由です。綾野剛の、本当なのか嘘なのか分からないわざとらしい演技、わざとらしい涙、それら全てが、嘘でも本当でもどっちでもいいやって思って真偽が溶けて行く感覚。

私の図書館

図書館が、好き。踏み入れた瞬間の、心のときめきは恋に似ている。でも冷めてしまう恋とは違って私はずっと図書館に恋い焦がれている。図書館と本屋は似ているという人もいるけれど、私にとっては全く違う場所。懐かしさと寂しさと愛おしさを呼び起こす。子供時代を思い起こす懐かしさの象徴、それが私の図書館。図書館で本を選ぶときには、ネットで書評を検索しない。だってお金がかからないから。背表紙を見ながら、ラミネートされた本達を手に取る。彼らを見ていると本当の親友のように思うのだ、愛しい愛しい私のふるさと。

お花見とカラスの羽

お花見をしている人を見に上野公園まで来た。

日が落ちると少し肌寒い、さっきスタバでバニラクリームフラペチーノを買ったのは失敗だったかな(とっても冷たくて身体が冷える)

トーハクの前の噴水広場でさっきフラペチーノと一緒に買ったドーナツをモフモフした。スタバのドーナツはパンみたいにモフモフしていることがわかった。

ブログの内容を考えようとぼーっとしていたら頭上からカラスの声が聞こえて来て思い出したことが1つある。まだ私が幼かった頃、道に落ちていたカラスの羽がとても素敵なものに見えて、お家に持って帰ったら母親に汚いから捨てなさいと怒られたのだ。今の私はカラスの羽を美しいとは思わなくなってしまった。

それだけでおしまい、ちゃんちゃん!

(寒いからもう帰る!)

 

センター試験

センター試験について覚えていること、点数はどの教科も覚えてない。1番最初の科目が世界史だったことと、リスニングの時間がとても眠かったことは覚えている。世界史の試験が始まった時に緊張して頭がうまく回らなかったことだけは強烈に覚えてる。でも結局世界史の点数が1番良かった気がするけどね。最初の科目が得意科目の世界史で、しかも暗記科目だから頭なんて使わなくてもオッケーだったのでラッキーだったのかもしれない。帰ってから2chセンター試験スレをずっと見ていたけれど、あんまり意味はなかったしむしろ精神衛生に良くなかったのであれは辞めた方が良かった。

 通っていた高校は進学校でもなく、私の友人にはガチで受験に挑んでいる人もほぼ居なかったし、受験直前もピリピリした雰囲気はクラスには無かった。進学校とはどんなものなんだろうかとたまに思う。みんなが頭が良くてみんながライバルなんだろうか、でもそんな殺伐とした雰囲気って二流三流の進学校のもので、超一流はもっと自由でゆったりとしてそうでもある。

 

君の見えないファボを探して

最近生きるのが随分楽になったと思う、何をするにも面白なくていいことに気づいたから。楽しくなきゃいけない意味のあることを言わなきゃいけないと思っていた。つまらなくてしょうもなくて何の意味もないやりとりを愛していてもいいことに気づいた。ツイッターで他人のお気に入りの欄を眺めるのが好きだ。注視しているものが文字になって現れる、わかりやすくて好き。だって現実の世界じゃ他人が何に注意を向けているのかわからないから。でも鍵垢へのファボは見えない。ツイッターでも現実でも君の見えないファボを探している。いつだってわたしはそうだったのだけれど、馬鹿みたいな薄っぺらいやりとりをひたすら積み重ねて相手の何かを分かったような気になって、そうしてずっとふざけ合っていたい。君の見えないファボを探して、君のお気に入り欄のわたしのツイートを見つめながら。

大丈夫な日の私だけみつめてよ

タイトルは私の愛する大森靖子ちゃんの「ミッドナイト清純異性交遊」の歌詞から。現実じゃ男友達なんていないし、そんなに仲良くしたいとも思わないのに、SNSじゃどうしても男の人と仲良くなりがちだ。現実世界では女の子と仲良くなる方が楽なのに、どうしてネットだと逆になってしまうんだろう。

 “大丈夫な日の私だけみつめてよ”というこのフレーズは、初めて聞いた時からなんだか不思議にどうしてそう思うのかがわかったような気がした。私には大丈夫じゃない時が沢山あるし、大丈夫な時でも簡単にほんの些細なきっかけで大丈夫じゃなくなってしまう。大丈夫な日は他人に優しくできる、笑顔でいられる、そういう日の私だけを見せたい。“ダメな私を受け入れて”よりずっと良い。そういう維持を張っていたいのは女の子相手であることが多い。同性を相手にした時の方がカッコよくありたいと強く思う。異性に好かれるより、同性に好かれた方がある意味では嬉しいし期待に応えたいと思う。だって、異性よりも純粋に私を見てくれているような気がするから。

読むことと書くこと

ブログがというか、文章が、上手く書けない。ので、特に意味のないことを長々と小手先で書いてしまえるような能力であっても、とても羨ましい。他の人よりも本を読む子だったので、何かを書ける人には憧れていたのに、自分には上手くできないというコンプレックスがずっとある。

  金原瑞人さんのエッセイを最近読んだ。彼のことは、図書館の海外の本によく名前が載ってる翻訳者だという認識しかなかった。私が小学生の時に特に気に入って何度も読んでいたファンタジーのレイチェルシリーズも彼が翻訳していたので名前はよく覚えていた。 最近、金原ひとみさんの父親で大学で働いていて日本のYAジャンルの立役者だということ、エッセイを出していることを知った。エッセイ本のタイトルが「翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった」という何だかとても面白そうなものだったので気になっていた。それをついこないだ読んだのだ。結果、面白かった。本人のチャーミングな性格が文章から伝わってきた。その本の中に“言葉の力を実感したければ、実感できるまで読んで書く、書いて読む、それしかないと、投げやりな言葉で、とりあえず、〆”という一節があった。これを読んで、私も書けばわかることあるのかなと思って今、ブログを書いている。私は今まで自分の読んだ本や、経験して感じたことを文章という形で出力してこなかったし、私なんかの下手なアウトプットに何の意味があるのかと思っていた。でも今、部屋に並ぶ本の数々を見て、人生の中で経験した様々なことに想いを馳せると、このまま自分が死んでしまうのは寂しいと思ってしまう。ツイッターで呟くのは、ただ思いついたことを何の繋がりもなく垂れ流しているだけなので、何かが違う。

 頑張って、ブログもうちょと書いていこうかなあ。